北杜折々の記19

図1ほくとゆうゆうふれあいニーズ調査表紙、図2介護を受けたい場所、図3死期が迫っていると告げられた場合に望む療養場所
図1ほくとゆうゆうふれあいニーズ調査表紙、図2介護を受けたい場所、図3死期が迫っていると告げられた場合に望む療養場所

それでいいじゃないか ー自身の老い、死と向き合わない文化ー

 

 これはあくまで僕の個人的な印象だが、北杜に住む多くの方は老いと死を現実の問題として考えていない。同じ問題は他の地域でもあるのだが、北杜市では、特に移住してきた人にその傾向が強いと思う。その理由を想像するに、多くの方が『素晴らしい自然環境に恵まれた北杜市で人生を最後までEnjoyしたい』と考えているからではないか。『この地へ越してきたのは人生を楽しむためであって、老いを過ごし、死を迎えるためなんて、移住当初から全く考えていない』ということ。是非はともかくとして、このような老いの生き方を国や自治体は『健康寿命の延伸』という形で政策的に大きく後押ししている。いのちを延ばすだけではなく“ぴんぴんころり”を重視する死生観だが、この“ぴんぴんころり延命思想”だけでは老いの坂道を登り切ることは難しく、死はタブーとなる。

 

 令和2年3月に発行された『ほくとゆうゆうふれあいニーズ調査(図1)』報告書1)によると、回答者(65歳以上の市民2157名)の60%以上が自宅で介護を受けたいと願い(図2)、死期が迫ったときも1/3の人が自宅での療養を希望している(図3)。さらにこの報告書は、人生の最終段階における医療、介護サービスについての理解などにも触れており、老いと死に関する住民の考えをうまく引き出していると思う。北杜市民は老いのこと、自分が自分のことを決められなくなった時のこと、最期を迎える場所などについてもよく考えている。また報告書には盛られていない内容であるが、関連する内容の講演会などの参加者が大変多く、地域には多くの生と死を考える集いが持たれている。人々の意識が高く、知識も豊富であることは間違いない。

 

 ただ僕が問題として感じるのは、『老いや死に関する知識は重要だが、その現実については自分のこととして考えたくない。自分は元気なのだから』、という方がここには多いということ。またTruth-telling(いわゆる告知)の問題でも、一昔前に戻ったような戸惑いを覚えることが時々ある。老いや死は極めてPersonalな問題であるにもかかわらず、“自分の”希望を実現するにあたっての具体的な問題や克服すべき障害について考えようとしない。「これでいいのかな」と思うことも少なくない。

 

 いずれ時が来れば、だれしも老いと死の門を潜り抜ける。老いの坂にたどり着く前に人生を閉じる人もいるが、大部分の人にとってこれは真実である。重要なのは、老いと死への向き合い方は人さまざまであつること。その人の生き方、価値観、家族関係などと密接に関係しているので、われわれ医療者と言えど、自分の考えを一方的に押し付けるようなことがあってはならない。

 

 自分自身が高齢となり、ひところの勢いがなくなってくると、社会や人々の考えを変えようとするのではなく、「そのような生き方があってもいいではないか」とその一人一人の生き方を受け入れることができるようになってきた。多様性を尊重する哲学なので間違ってはいないと思うが、かつての自分とは違うような気がしている。「自分も成長したものだ」と嘯くが、内心は複雑だ。

 

1)北杜市老人福祉計画・介護保険事業計画策定委員会 ほくとゆうゆうふれあいニーズ調査報告書  

 https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/docs/148.html

 (2023年7月15日記)