「死者の月に思うこと」
教会の典礼歴では11月を死者の月と定め、歴代の教会はこの時期キリストの死に思いを馳せるとともに、亡くなったすべてのキリスト者を記念してきた。それは同時に、Memento Mori(“死を想え、自分が必ず死ぬことを忘れるな”の意)という言葉があるように、自分自身の死について考える特別な時でもあった。死には様々な姿があり、きわめて個人的な問題であるとともに、地域、歴史、文化などの背景に影響を受けている。「日本人は死を受け入れる優れた民族である(P. トゥルニエ)」との歴史的な評価もあったが、それは「かつて」の話であって今はそのようなお褒めの言葉は当てはまらないのではないか、と思っている。
北杜に移住(2021年8月)して15名(がん患者は9名)、北杜へ来る前に2,500名以上(ほとんどはがん患者)の在宅での看取りを経験したが、そこにはいくつかの重要な共通点がある。その一つは、『死を待ち望む人はまずいない』ことだ。この点は若くして亡くなった方も、100を超えて逝かれた方も同じである。ただし高齢の方は、周囲に気遣ってか、「早くお迎えが来てほしい」という言葉を発する方は多い。本音だと思うが、それでも日々口にする食を楽しみ、孫が訪ねてくることを心待ちにしている。その点から考えれば、高齢者の「死にたい」という言葉を文字通り捉える必要はない。しかし、高齢者はそのような痛みを背負い、老いの日々を過ごしながらお迎えの時を待っている。多くの高齢者は死を受け入れているが、死にたくない。このことを私たちは忘れてならないと思う。
死は基本的に、個人レベルの問題だ。つまり、その人の自由の範囲内の問題であって、他人から、あるいは国家などから押し付けられるようなことがあってはならない。私たち医療者は、死に意義を見つけて患者の生を肯定することがあってはならないと思う。死までの時を自由かつ納得のいく形で、人間として豊かに生き抜くことができるよう、支えることが重要だと私は考えている。
死者の月が終わると教会歴ではアドベント、待降節の時を迎える。喜びの時を迎える準備の季節がまもなくやってくる。