北杜折々の記13

榊裕之さん(文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真:文部科学省大臣官房人事課栄典班)/ あめんどう2号の表紙
榊裕之さん(文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真:文部科学省大臣官房人事課栄典班)/ あめんどう2号の表紙

「もの・ひと・かみ」

 

 今回は、北杜と直接関係ない話を取り上げようと思っています。50年以上前に出会い、同じ釜の飯を食った仲間の話です。なぜそのような昔話を取り上げたかというと、その彼が喜ばしいことに文化勲章を受賞したからです。内容が少し難解かもしれません。お許しください。

 

 1966年(昭和41年)10月、一人のカトリック信者の学生が僕たちの寮(東京大学学生基督教青年会寮、通称“東大YMCA寮”)へ入寮しました。その人こそ2022年(令和4年)、半導体ナノエレクトロニクス分野の研究で文化勲章を受賞した榊裕之さんです。僕はその年の4月、つまり榊さんが入寮する半年前に東大YMCA寮で生活を始めていたので、寮生としては半年先輩ということになります。ただその時、榊さんは本郷の工学部の3年生、僕は駒場教養学部の1年生だったので、学年は榊さんの方が2年先輩ということになります。もう半世紀以上前の話ですが、その時のことを最初に語りたいと思います。

 

 榊さんの入寮選考会では、彼が“カトリック教徒”であることが大きな問題となりました。というのは、1888年(明治21年)に創立された東大YMCAは、伝統的に“プロテスタント信者、あるいは求道者”であることを入寮資格に掲げていたからです。書類選考の段階では、僕は榊さんの入寮に反対でした。寮の伝統を重視したというよりも、カトリック信仰そのものに対してアンチの立場だったからです。4代続くプロテスタント家庭で育った僕は、こともあろうに中高6年間をアンチプロテスタンチズムの牙城であるイエズス会立の広島学院で過ごしました。そこで大変な軋轢を経験した僕は、高校卒業時にはさらにコチコチのプロテスタント信者になっており、大学に入ってからも、反カトリシズムの鎧を脱ぎ捨てることができませんでした。

 

 ところが面接選考の場で榊さんにお会いすると、僕の勢いは急激に萎えてしまいました。その時、具体的にどのような会話をしたかは記憶にありませんが、榊さんにはいわゆるカトリック臭さが微塵も感じられませんでした。カトリックの教条的なものが一切なく、極めて自然体で飾るところが全くなく、むしろ大変魅力的な方だとわかったのです。面接が終わると、僕は榊さんの入寮に対して積極的に賛成の旗を振っていました。

 

 あらためて申し上げる必要はないと思いますが、榊さんのお人柄は大変穏やかで、全てが上品かつスマートでした。彼が舎生になってからは、親しく付き合っていただいたのですが、僕の愚問に対してはいつもじっくり耳を傾け、はっとした驚きの表情と笑みを浮かべながら、真摯にやさしく答えてくださいました。やさしくといっても語る内容はいつも大変奥深く、僕にはすぐに理解できなかったことが多々ありました。また自分の考えを述べるときには常に言葉を慎重に選び、丁寧にわかりやすく語りかけてくださいました。現理事長(公益財団法人東京大学学生キリスト教青年会)の月本さんも榊さんと同様なコミュニケーションパターンをとっていたと記憶していますが、お二人の控えめな話しぶりには当時から大変な説得力がありました。

 

 次に、当時の榊さんがどのような考えを持って学生生活を送っていらしたか、参考になる文章が残っているのでその話をしたいと思います。

 東大YMCAでは会報が定期的に発行されていますが、それとは別に同人誌の「あめんどう」 が1958年(昭和33年)12月、文学部の黒瀬一雄兄を中心に発刊されました。その「あめんどう」が約10年の時を経て、寮生の有志により復刊されました。因みに僕もこの有志のひとりだったのですが、「あめんどう」の初版、復刊の両者に共通する発刊のモーチベーションには、学内だけではなく寮内でも舎生同士のコミュニケーションがとりにくくなっており、この状況を何とかしなければならない、という危機意識があったように思います。少なくとも僕は、そのことを強く意識していました。

 

 本稿の表題に掲げた『もの・ひと・かみ』は、1967年(昭和42年)発行の「あめんどう復刊2号」に収められた榊さんのエッセーです。復刊1号に続いて2号の編集にも関わった僕は、すべての原稿に目を通しましたが、榊さんの文章だけは内容の意味を短い時間で理解することが難しく、後日読み直すことに決めていました。なかなかその機会がなかったのですが、幸いなことに今回読み直すことができ、やっと榊さんの言わんとすることが朧気ながら分かったような気がしています。

短いエッセーは、『飼い犬が主人の心情をどの程度理解できるかということは検討に値することだと思う』というユニークな書き出しで始まっています。他者の心情理解、あるいは心のつながりについて書こうとしていることがわかります。しかしこれはあくまでイントロダクションです。文章を読んでいくとはっきりしてくるのですが、榊さんが問題としているのは他者との直接的な関係だけではなく、むしろ『自分自身がどう考え、どう行動しようとしているのか』ということです。この問題に踏みこんで徹底していけばおのずと他者との良好な関係が形成され、己と他者とは小枝を経て大きな共通の幹へと繋がっていくというのです。決して他者との関係を否定しているわけではないのですが、他者に目を奪われて真似をするのではなく、自分は自分の信じる道を歩み進んでいく。穏やかなお人柄の中に、学問、人生に対する榊さんの強いPassionを感じざるを得ません。

 

 榊さんはエッセーの後半部で『他人との共通の基盤を求めるためには、何が最も自分らしいかを探し』、『ぶどうの小枝である私は、隣の小枝の葉ぶりを見てそれに近づこうとは努めない』と強烈な自己主張、宣言をしています。そして最後に『最も自分らしい姿に達する作業を通じて、他人と自分を結ぶもの”人間としての共通基盤”に触れることができるような気がする』と結論付けているのです。いまこの文章を読むと、若き日の榊さんが自分の基本的な研究姿勢、生き方を語っていらっしゃることに気が付くのですが、たぶんそれらは今に至るまで変わっていないのではないかと僕自身は想像しています。

 榊さんの天賦の才能に加えてこの哲学があったからこそ、文化勲章受章につながるお仕事をなしとげたのだと理解しています。

 

 榊さんは、教育者として『研究者をいかに育てるか』という視点から「士型(サムライガタ)人材」の育成という考えを提唱されていると伺っています。このアイディアの誕生も、エッセーの中でその萌芽を見ることができます。未来を切り開き、創造力や先見性を持った人材を育てるためには、幅広い学識や関心だけではだめだという基本理念ですが、それはリベラルアーツを大切にする榊さんの姿勢を表しており、僕もこの提案にもろ手を挙げて賛成です。

僕の専門分野である臨床医学領域では『EBM』、すなわちEvidenceに基づいた医療の実践が最重視されています。非常に大切なことですが、一方でEBMだけでは故日野原重明先生が指摘しているように、Artとしての医療がおろそかにされる恐れがあります。つまり『Medicine is an art based on science (W. Osler)』なのであり、医師の育成の場面でも榊さんが提唱されている士型人材育成の考えを取り入れることが重要だとわかるのです。

 

 エッセーの最後で榊さんは、『自分のよって来るところの幹に立ち返る』と記していますが、拠るべき幹についてそれが具体的に何であるかについては特定していません。拠るべき幹は、様々存在するからです。しかし僕たち東大YMCAの仲間がたち帰る幹、つながる根っこは主イエス・キリストの父なる神であると信じています。僭越ながら、榊さんも同じ考えではないかと思っています。

 

 改めて、榊さん、文化勲章受章、おめでとうございます。

 (2023年2月14日記)

 

 あめんどう2号より 榊裕之さん『もの・ひと・かみ』